アートでつなぐ ほこほこ

アートでつなぐ ほこほこ あかはねさやかのブログです☆

2012年04月

からだをひらく 岩下徹さんのワークショップより

この4月のテーマは、からだをひらく、でした。

もう稽古らしき稽古や、ワークショップにも参加しない期間がだいぶ続いていて、、
じぶんの中でやっぱりそれを求める衝動があがってきていて、、
今月の目標は「からだ」!ということで
先週はフラダンスの体験レッスン、
そして今日は岩下徹さんの舞踏?ダンス?ワークショップに参加してきました。

場所が地元のそばの湘南台ということもあり、、、
ラッキー♪という気持ち反面、
こんな地元でやるなんて、
正直どんな内容なのだろう、、という心配もありました。(失礼ですみません。。)
シニアの方がメインということもドキドキ。。。(こちらも失礼。。。)

でも、結果、参加してみてほんとうにほんとうに良かったです。。


参加されている方たちは、
大野一雄さんや山海塾や竹内敏晴さんなどのワークショップの場を経て来られている方たちでした。
なによりこのワークショップの主催団体が、
亡き太田省吾さんという演出家の市民劇団ということ。
(私は太田さんの作品は観たことはありませんが、
転形劇場、無言劇で知られる有名な方です。)

アングラ演劇などが全盛だった時代を肌で体験しておられる先輩方、
周りへの気配りもありながら凛として自分の世界を持っているというか、、
そんな方たちと
同じ場を過ごせてとても気持ちがよかったです。


あらためて、
「演劇人」という言葉を思い出しました。

うまく言えませんが、
なんだろう、、、わたしは
やっぱり「演劇」という場がいちばんしっくりくるのだなあとしみじみ感じました。


初めて出会った人同士が、
言葉ではない関係で
少しずつ近づいていく。

普段の社会での関係ではなく、
それは
動物的な感覚。

さっきまでまったくの他人だった人と、
身体を近づけてひとつの空間を共有している。

そのおもしろさ。。


そして、
なによりその場を作っている
岩下徹さんという方。

岩下さんは山海塾などで踊っておられる舞踏の方。
さまざまな方にダンスセラピーなどもしておられるそうで、
病院でもダンスワークショップをされているということで前から興味を持たせていただいていました。

以前、大阪のお寺でのワークショップでお会いしたのが初めてで、
以来久しぶりに2度目の出会い。

・・・ですが、いまの自分で
このタイミングで出会えてほんとうに良かった、、と感じました。

今日の印象は、まさに、、、、お坊さん。。。笑。
もちろん卓越した修行者の方のほうです。

話し方は柔らかくて、腰が低くて、けれど目の奥に強いものがあって、
それは殺気ともいえるようなもので、ずっと見るのは怖くて。。

その空間にいるのに、自分の気配を消して空気の中に溶けることができる方だと感じました。

きっと、以前のわたしだったら、
目に見えているものだけでとらわれてしまって、
大切なものに気づかずに流してしまったのではと思いました。
大阪でお会いしたときは、そう、形だけしか見えなかった。


今日の言葉で、
「からだは自分が所有しているものではない。自分というものはからだの外に出たり内に入ったりしているのでは。」
というような(ああ~~言葉がぜんぜん違ってますきっと。。ごめんなさい。。)
のが印象的でした。

ワークを続けて3時間。はじめはからだの動きに対して
頭で考えることから離れられず、
からだも気持ちよくなくて疲れてしまって、、、
それがだんだんと、気持ちよいほうへたのしいほうへ
自然に楽になれていった気がします。。


仏教や瞑想などの経験と、
岩下さんの表現と
つながった気がしました。

「自分」という存在
「我(われ)」とはなんぞや?

表現の世界でも何度も問われてきたテーマ。
仏教を学ぶ中でも同じ事が問われています。

「自分」や「我」を超えたところ、消したなかに現れてくるもの。


そんなことを「からだ」を通して気づかせてくださる岩下さんのワークショップ、
今後もつづけていきたいと思いました。






犬とおじさんのカップル

海辺ですれ違ったカップルの中で、
はっと目をむけずにはいられなかった二人。(おじさんと一匹)

波打ち際に向かって夕暮れ、二人座り並ぶ背中のうしろ姿、

写真におさめるのもなんだか照れくさくなってしまうくらい、
その寄り添う姿に
なぜか
きゅんっとなった。。

ゴールデンレトリバーらしき彼女とおじさん

その彼女の寄り添い方が
なんて素敵なんだろう、、
しなやかで
まっすぐで
信じてて
安心してて
そしてでも支えてるみたいな

なんて思って、でもあまりにも
その二人の姿が
美しくて恥ずかしくなって目を一瞬そらしてしまって

そして
もういちど
見たら

あ!



おじさんが
彼女(レトリバーらしき犬)を
ぎゅうっと
だきしめた。。


なんだか、、
大切な秘密を見てしまったようで、
どきどきしながら通り抜けた


そのあとにすれ違った
どんなカップル(見た目は人間同士)にもドキドキもなーんにもかんじなかった、な



わはは
思い出すだけで
涙が出そう、、

写真にとらなくて良かった。。
ほんとに素敵だったから
そのまま
大切に
あのまま
秘密に

いし



骸骨のような



あなあな



あなあなあなあなあなあなあなあなあな・・・・・・・・



笑いあっているような



タオ指圧のこと 習う編

きょうはタオ指圧の授業の日。
開始は朝の10時から終わりは夕方の17時ごろまで。
その前後に、念仏の時間というものがあるので、ほぼ一日中ということになる。
それが二日間つづく。

タオ指圧は、浄土宗和田寺の住職さんの遠藤喨及師が体系だてた、気の流れ「経絡」を整える指圧(だと思っている。奥が深いので説明は私ではちゃんとできません。。)。
もとは増永静人氏が始めたという。

寺がやっている、とはいえ、
初めてここを知った頃は、あやしい宗教なのでは、、という思いが強かった。。
(いや、今でも芯がぶれぶれの私は、常に迷っているか。。)

が、そもそも「宗教」とは何か。
その言葉の発生の源はなんであったか。
そして「カルト」というものになるパターンなども学ぶ。

何かに盲目的になってしまったり、モノや人を信じたり、はてまたじぶんが神様のようにふるまったり、などという、
そうなってしまう心は、実は誰しもの中にもあり、それをいつも注意してみていることが必要なのだという。

いやはや奥が本当に本当に深いので、とてもそのさわりすら書くことはできないのでこのくらいに。。

ここには、北は北海道、南は九州まで、さまざまな方が習いにやってきている。
マッサージを仕事にしている方をはじめ、整体師、鍼灸師の方々。そして、看護師さんや医師まで。
そして、主婦の方やリタイヤしたお父さま方もおられる、年齢も老若男女さまざまである。
しかし、私のようなあんぽんたんが何故いられるのか不思議なほどである。。
いつ破門(?)になるか、、といつも思っています。。

そう、破門というのはおいといても、この指圧は誰でもウェルカムというわけではないのです。
中には指導の先生と話しをして、入門は断られることもあるのです。

何故か。
それはここでは、気、というものをまず第一に大切にするからだと思います。

私たちが普通に暮らしてる中で、言葉で言われたことと、そのとき受ける感じ、がなんかちぐはぐだったりすること、って実はよくあるんじゃないかなあと思う。
すべて、心で思ってることは、伝わっている、それが意識であっても無意識であっても。
なんか漫画の『サトラレ』みたいだけど、思っていることが伝わる、とかテレパシーみたいなこと、って特別な能力なんじゃなくて、実はもともと人間にあった能力で、それがだんだん現代社会の生活の中で退化してしまっている、のだそうです。
いや違うかな。そういう、言葉と思いが違うことを言われたときって、受ける方はたくさん傷ついてしまうから、それをだんだんと感じないようにする、そうです。

その一番の例が子どもで。子どもはとっても敏感なので、親の気持ちをダイレクトに感じとっているんだけど、だんだんと大人になるにつれてその感性が失われていくのだそうです。
敏感でいることは、楽しい嬉しい幸せな気持ちと同じくらい、悲しい辛い苦しい気持ちも感じること、だから、それをずっと持っているというのはとっても大変なことなんですよね。

でも、、、
タオ指圧ではその敏感な心を持っていなければ、人を癒すことはできないということなのです。

だから大変。。

そうそう、何故入門を断られるのか、というのは、それは滅多にはないことらしいのですが、
やはり、その気、が問われるのだと思います。

どんなネガティブな心も自分の中にあって、それが人を傷つけてしまうことがあるということに、目をむけつづけていくこと。

でも、それは自分のいままでの傷や痛みやトラウマと向き合うことなので、とても簡単なことではないのです。
それを超える、じぶんではない大きなチカラ、神仏であったり、自然とか宇宙であったり、
生かされていると感じる何かであったりする存在があることを感じる、感じさせてもらってできることなんだよなあと思います。

さ、うまく言葉にできていないけど、とりあえずいってきます!

老 いる

生、老、病、死
これらは
「四苦」といって仏教では
人間の苦しみの大きなものとされているそうだ。


老いること
病気になること

女性の後厄と言われる歳を過ぎ、
じぶんの身体の変化にちょっとずつ慣れていこうとしている日々。

同時に親のさまざまな変化を、
どう受け止めたらいいのか、
これはなかなか厄介なことだ。

きょうは久々に、前に働いていた老人デイケアサービスへ遊びに行かせてもらった。

そこでしか会うことのないメンバーのおじいちゃま、おばあちゃまたち。
静かに微笑むときもあれば
大きな声で怒っているときもあり
子どものように食べ物をこぼしたり
ずっと寝てしまったり
排泄もじぶんではままならなかったり
、、、、

けれど、こちらはたしかに体力も気も使うのだけど、笑顔でいられるのだ。
天使のような微笑みを投げかけて優しくできている(とじぶんで思ってるだけかもだけど。。)。

これがじぶんの親となると、、、
難しいんだなあ。。
怒っちゃうんだなあ。。
受け止められないんだなあ。。
見たくないんだなあ。。。


若いとき
元気なときのままでいてほしい
そう思ってしまう。


なぜ痴呆になるのか?
痴呆とは?
ということを、このデイサービスでの勉強会で何度か学ばせてもらったことがある。

そこで家族の関係性が大きく影響する、みたいのを読んだ。


できないことを怒ったり
老いを否定したり
それは、痴呆を進めることになる

「共感」
そうだよねえ、
同じだよねえ、
できないのは嫌だよねえ、
年取るのいやんなっちゃうよねぇ、
ぽっくりあの世に行けたらいいのにねぇ、
まったくねぇわはははは~

ここのデイサービスのスタッフはそんな風にメンバーと接している。

みんな老いる。
みんな死ぬ。

その怖い日々を、ちょっとでも楽しく元気に過ごせるようにスタッフはさまざまな努力をしている。


所長さんに言われた。
「親孝行してる?」
って。
「ここまで大きくしてくれた恩を子どもはすっかり忘れて、仇で返すんだよ。
親を施設にいれるんだよ。」
って。

所長得意の皮肉だけど、
胸につきささった。


私もかならずおばあちゃんになる。
1人でいろいろできなくなる日も来るかもしれない。
その不安な気持ちを忘れないようにして生きたいな。。

とーちゃんかーちゃんありがとうっごめんっ!


プロフィール

hana

タグクラウド
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ